例え、それが虚構だろうと
ただただ、心情を書き留めたいときにここは便利だなと思いながら、ペンを持つ。
正確にはキーボードを叩いているのだが。
視野が広がるのは良い。
先ほどまで、実写版の美女と野獣を子ども達と見ていた。
冒頭で、街の住民たちが夢想するベルを「変な人」呼ばわりするシーンがミュージカル調に描かれている。そのシーンの中で、ベルは本の中に想いを馳せることで自分の世界が拡がると歌っているのだが、その心境がよく分かる。
ということは、私も「変な人」なのかもしれない。
子ども時分と違い、社会に出ると良くも悪くも繰り返しなのだ。
朝起きて、会社に行き、帰ってきて、寝るまでの間。
自らアクションを起こさなければ繰り返し。リピート再生されているかのようだ。
営業をしていた時は良かったが、デスクワークが増えてきてからは特に世界が狭くなった気がしていた。
それもあって、サークルで体を動かしたりはしているのだが、やはり似たような人が集まる。
すれ違う人は、大勢いるのに毎日顔を合わせ、会話をする人は多い日でも20人にも満たない。
似たような生活。
似たような価値観の人たちに囲まれ。
似たような顔をして歩いている。
広いようで、自分が生きているのは何て小さな世界なんだろうか。
外に働きに出ている私でさえそう感じているのだから、在宅で個人事業を営んでいる人や専業主婦の人はもっと窮屈なんではないのだろうか。
到底、真似は出来ない。
尊敬に値する。
いや、中にはその方が性に合う。という方もいるとは思うのだが。
だから、他の人の世界観や日常に触れるというのは、視野が開ける気がするから好きだ。本にしろ。ブログにしろ。
人間、狭い世界で生きていると、なぜ自分だけこんなに大変なのだろうか。
という錯覚に陥る。大変な人は、実は大勢いるのに。
頑張っている姿を文章から見ることができると、自分も頑張ろうかと思える。
まぁ、錯覚と言えば錯覚だ。
文章は文章。物語。リアルではない。
本であれば、読んでいるものがフィクションものかもしれないし、
ブログであっても嘘の可能性だって大いにあり得る。
だが、そんなことはどうだっていいのだ。自分が活力を得るために読んでいるのだから。
いちいち、斜に構えて読んでいたらきりが無いし、私にとって意味がない。
だから、それが本当に起こっていることと「信じて」
明日もきっと何かを読むのだ。
自分の世界を拡げるために。