ブログ二刀流
そうか。こっちには、あちらに書けないことを書けばいいのか。
なんとも、便利なブログ二刀流。
しかも、閲覧者があまりいないというのが有難かったりする。
ここで、書いておけばブロガーの集まりというのも嘘では無くなるのかもしれないなとふと思った。
私には、家族みたいな友人達がいる。不思議な関係だが心地良い。
誰かが、喜んでいれば自分のことのように嬉しいし。
誰かが、悲しんでいれば自分のことのように悲しい。
共鳴。のような感覚が彼・彼女らにはある。
そのうちの陽だまりのような姉と少し前に電話で話すことが出来た。
半年くらい前に、どうしても救いたい人がいた。
情緒不安定で、人間不信に陥っていた人。
多分、身近に今まで絶対裏切らないと思える人がいなかったんではなかろうか。
悲劇の主人公のように振る舞い、自分に注目を集めたい人のようにも見えたが、
それも、「それでも、あなたは裏切らないと言えるの?」という疑心暗鬼から来るものなのだろうと今も思っている。
だから、優先順位は他の誰かより低くても良い。
何かに疲れたり、話したくなったらおいで。というスタンスでいた。
その判断は良かったのか悪かったの未だに分からない。
その人は無条件で受け入れてくれる「親」みたいな存在が必要だったのだと思う。
ただ、私は当たり前だが「親」では無い。
その当時は、全て受け止めきれるという、根拠のない自信があったのだが、
その自信は崩されてしまった。
私にはどうしても譲れないものが2つある。
「家族」と「生き方」だ。
当時は、災害ボランティアや親がいなかったり、家庭の事情で施設に預けられている
子ども達が入居している施設によく訪問していた。
そういう活動を始めたときに、利潤を生みだす為だけに働いているという事に
強烈な違和感を感じ、管理職だったにも関わらず転職するに至っている。
少し時間はかかってしまったが・・・。
その「生き方」というか生きがいという方が正しい表現なのか?
を全面否定されてしまった。
「そんなに人を救いたいの?偽善者だね。」と。
きっと、その言葉を言わせたのは私の落ち度で、その人は本当に言いたかったことは
そうではないのかもしれない。
だが、心の中で幕のような、壁のような何かがすっと下りてきた。
それ以来、その人との連絡は遮断されている。
自分でも自覚が無かった、地雷。
その人との関係の経緯の詳細を知っているのは、前述の友人達のうち
話をした陽だまりの姉だけだ。
その姉にさえ、どういう終わり方をしたのかは今まで言えずにいた。
もし、その人が私たちの所へ、戻ってきたときの居場所を奪うことまではしたく無かったから。
姉には、そこまで考える必要ないよと言われたのだが。
他にも、その人の共通の知人達から、心配の声を掛けられたが
私では無くて、あちらの味方で居てあげて欲しいことだけを伝えている。
強くあろうとするのは簡単だ。見栄を張ればいい。
ただ、それは折れやすいということを思い知った。
自分のキャパシティが小さいだけなのかもしれないが。
弱いことを自覚しよう。
なんでも出来るわけではない。誰にでも、救いの手を差し伸べればいいわけではない。
見守ることが出来るのも一つの強さだ。
最後まで話を聞いてくれた姉には感謝しかない。
いつも何かあったときは彼女の言葉に救われている気がする。
ありがとう。