個性と障がい

 個性とはいったい何だろうか?と考える。

そういう事を考える機会が、ぐっと増えた。

足が速い。勉強が出来る。手先が器用だ。歌が抜群に上手い。etc

では、何か欠ければ生きてはいけないのだろうか。

 

スポーツが苦手であれば、勉強を頑張ればいい。

勉強が出来ないのであれば、手に職をつければいい。

手先が不器用であったら、道具や他の人に頼るなど対応力を身につければいい。

 

いわゆる一般常識に囚われるから、「出来ない」ことに罪意識を覚えてしまう。

例えば、私であれば「声が小さい。」

さいころから、話しているのに聞き返されることなどしょっちゅうで、

学校でも教室で発言するとき等は、声を張るという意識を持たなければ届かなかった。

それを教師はもどかしく思ったか、「大きな声」を出す練習をさせられた。

 

全くナンセンスな話である。

社会に出てみてそれが何かの役に立ったか。全く立っていない。

声が小さいという事を自覚しているから、聞き手の近くまで行って話す。

プレゼンテーションなどは、小型のマイクを使えばいいだけの話だ。

 

だが、世間一般的にこの風潮は往々にしてあるのだ。

 

苦手は苦手。生活の支障をきたすlevelで無いのであれば問題はない。

本人の得意なものに時間を割く方が余程建設的だろう。

 

障がい者の雇用に関しての法令が、施行されて久しいが遵守している企業のなんと少ないことか。

彼らが「できない」ことに関して偏見の念を持ち、「できる」ことに関して目を向けていないことの証明だろう。

 

人を雇うことは会社としては、コストがかかること。

それは、間違いないことであるが、「人を大切にしない。」

企業の多さには辟易とするところである。

社員は企業のために働く。企業は社員のためにある。

という理念が崩壊してしまっている現代の多くの日本企業はそんなに息が長くないような気がする。あくまで私見だが。

 

とはいえ、では私に何ができるのかと考えたときに

経済的なバックボーンが有るわけでもない。

政界に進出するだけのコネがあるわけでもない。

医者や弁護士になって、そういった人たちを救える能力があるわけでもない。

 

それでも、何もしないというのは性に合わないので、

今の選択をするに至ったのだ。

 

この道で良かったのかどうかは全く不明だが。

それは、自分が「正解」にしてしまえばいいだけの話。

 

それでも、受け入れてくれた家族にはただただ感謝。