アップダウン

最近、精神的に上がっては下がってを繰り返している。

原因は、分かっているのだが吐き出す場所がどこにも無いというのは

少々苦しいものがあるのでここに書き留めておく。

厳密には、下がっているのを無理やり浮上させてみようと試みている感じなのだが。

どうも上手くいかない。

こんなに、セルフコントロールが不得手だっただろうか。

 

と、よく考えると今まではその原因となりそうなものは排除してきたのかもしれないと思う。

自分が弱いと感じることは、凄くストレスを感じる。それを感じないために予防をしてきたにすぎないのかもしれない。

 

やりたいことをやるためには、やらないといけないことが完璧ではないにしろ人並みには出来ていないといけないという勝手な脅迫観念めいたものがあり、自分のキャパシティを考えると「余白」が無くなってきている。

 

キャンパスに例えるのもおかしな話ではあるが、どんなに優れた絵でもスペース無く

描きたくってしまうと、違和感が生じる。空白。余白。何も書かない部分を上手く利用しなければならない。もちろん、余白だらけでは味気ないものに感じるだろうが。

 

有名なオーケストラの楽曲にだって、沈黙の数分間がある曲目があったりするのだから、いくら重厚感あふれる演奏でも、そればかりではつまらないものになってしまうのかもしれない。

 

息を抜けば?と色んな人に言われるが、そうもいっていられないと感じてしまう。

 

転職して、まだ半年だ。

慣れてはきたが、仕事の先が読めないのは少々つらい。

与えられたものをこなすというのがこんなに大変だったかと今更感じている。

仕事自体は楽しいのだが、要領を得ないというところではまだまだ新米のそれだ。

諸先輩方よりも幾分かおかしな経歴と多くの資格をもっているおかげである部門の主任を任されているのだから笑ってしまう。

 

経験不足を補うために、研修・勉強会には率先して参加するようにしているのだが、これも自分の首をしめているのか。ただ、やはり知らないことを知るということは楽しいのだ。この辺り、損な性格だなと思っている。

 

加えてまた取得していない資格をとろうとしているのだから、きつくて当たり前か。

自分が望んだことなのだから、やりきろう。

時間は誰にでも平等に与えられてはいるが。金では買えないというところが面倒だな。

 

 

もし、時間が買えるのなら。会いに行きたかった人が居る。

向こうはそんなこと思ってもいないのだろうが。

少し離れたその地に行くことに関して、いつも引っかかるのも時間だ。

また、いつものように羨望を向けるしかないのかと思うとやり切れなくなる。

ひねくれた感情が勝ち、そこには触れないようにしておく。

 

そろそろあの場も潮時なのかもしれないない。

例え、それが虚構だろうと

ただただ、心情を書き留めたいときにここは便利だなと思いながら、ペンを持つ。

正確にはキーボードを叩いているのだが。

 

視野が広がるのは良い。

 

先ほどまで、実写版の美女と野獣を子ども達と見ていた。

冒頭で、街の住民たちが夢想するベルを「変な人」呼ばわりするシーンがミュージカル調に描かれている。そのシーンの中で、ベルは本の中に想いを馳せることで自分の世界が拡がると歌っているのだが、その心境がよく分かる。

ということは、私も「変な人」なのかもしれない。

 

子ども時分と違い、社会に出ると良くも悪くも繰り返しなのだ。

朝起きて、会社に行き、帰ってきて、寝るまでの間。

自らアクションを起こさなければ繰り返し。リピート再生されているかのようだ。

 

営業をしていた時は良かったが、デスクワークが増えてきてからは特に世界が狭くなった気がしていた。

 

それもあって、サークルで体を動かしたりはしているのだが、やはり似たような人が集まる。

すれ違う人は、大勢いるのに毎日顔を合わせ、会話をする人は多い日でも20人にも満たない。

 

似たような生活。

似たような価値観の人たちに囲まれ。

似たような顔をして歩いている。

 

広いようで、自分が生きているのは何て小さな世界なんだろうか。

 

外に働きに出ている私でさえそう感じているのだから、在宅で個人事業を営んでいる人や専業主婦の人はもっと窮屈なんではないのだろうか。

 

到底、真似は出来ない。

尊敬に値する。

いや、中にはその方が性に合う。という方もいるとは思うのだが。

 

だから、他の人の世界観や日常に触れるというのは、視野が開ける気がするから好きだ。本にしろ。ブログにしろ。

 

人間、狭い世界で生きていると、なぜ自分だけこんなに大変なのだろうか。

という錯覚に陥る。大変な人は、実は大勢いるのに。

 

頑張っている姿を文章から見ることができると、自分も頑張ろうかと思える。

まぁ、錯覚と言えば錯覚だ。

文章は文章。物語。リアルではない。

 

本であれば、読んでいるものがフィクションものかもしれないし、

ブログであっても嘘の可能性だって大いにあり得る。

 

だが、そんなことはどうだっていいのだ。自分が活力を得るために読んでいるのだから。

 

いちいち、斜に構えて読んでいたらきりが無いし、私にとって意味がない。

 

だから、それが本当に起こっていることと「信じて」

明日もきっと何かを読むのだ。

自分の世界を拡げるために。

ブログ二刀流

そうか。こっちには、あちらに書けないことを書けばいいのか。

なんとも、便利なブログ二刀流。

しかも、閲覧者があまりいないというのが有難かったりする。

 

ここで、書いておけばブロガーの集まりというのも嘘では無くなるのかもしれないなとふと思った。

私には、家族みたいな友人達がいる。不思議な関係だが心地良い。

誰かが、喜んでいれば自分のことのように嬉しいし。

誰かが、悲しんでいれば自分のことのように悲しい。

共鳴。のような感覚が彼・彼女らにはある。

 

そのうちの陽だまりのような姉と少し前に電話で話すことが出来た。

 

半年くらい前に、どうしても救いたい人がいた。

情緒不安定で、人間不信に陥っていた人。

多分、身近に今まで絶対裏切らないと思える人がいなかったんではなかろうか。

悲劇の主人公のように振る舞い、自分に注目を集めたい人のようにも見えたが、

それも、「それでも、あなたは裏切らないと言えるの?」という疑心暗鬼から来るものなのだろうと今も思っている。

 

だから、優先順位は他の誰かより低くても良い。

何かに疲れたり、話したくなったらおいで。というスタンスでいた。

 

その判断は良かったのか悪かったの未だに分からない。

その人は無条件で受け入れてくれる「親」みたいな存在が必要だったのだと思う。

ただ、私は当たり前だが「親」では無い。

 

その当時は、全て受け止めきれるという、根拠のない自信があったのだが、

その自信は崩されてしまった。

 

私にはどうしても譲れないものが2つある。

「家族」と「生き方」だ。

 

当時は、災害ボランティアや親がいなかったり、家庭の事情で施設に預けられている

子ども達が入居している施設によく訪問していた。

そういう活動を始めたときに、利潤を生みだす為だけに働いているという事に

強烈な違和感を感じ、管理職だったにも関わらず転職するに至っている。

少し時間はかかってしまったが・・・。

 

その「生き方」というか生きがいという方が正しい表現なのか?

を全面否定されてしまった。

「そんなに人を救いたいの?偽善者だね。」と。

きっと、その言葉を言わせたのは私の落ち度で、その人は本当に言いたかったことは

そうではないのかもしれない。

 

だが、心の中で幕のような、壁のような何かがすっと下りてきた。

それ以来、その人との連絡は遮断されている。

自分でも自覚が無かった、地雷。

 

その人との関係の経緯の詳細を知っているのは、前述の友人達のうち

話をした陽だまりの姉だけだ。

 

その姉にさえ、どういう終わり方をしたのかは今まで言えずにいた。

もし、その人が私たちの所へ、戻ってきたときの居場所を奪うことまではしたく無かったから。

 

姉には、そこまで考える必要ないよと言われたのだが。

 

他にも、その人の共通の知人達から、心配の声を掛けられたが

私では無くて、あちらの味方で居てあげて欲しいことだけを伝えている。

 

 

強くあろうとするのは簡単だ。見栄を張ればいい。

ただ、それは折れやすいということを思い知った。

 

自分のキャパシティが小さいだけなのかもしれないが。

弱いことを自覚しよう。

なんでも出来るわけではない。誰にでも、救いの手を差し伸べればいいわけではない。

見守ることが出来るのも一つの強さだ。

 

最後まで話を聞いてくれた姉には感謝しかない。

 

いつも何かあったときは彼女の言葉に救われている気がする。

 

ありがとう。

個性と障がい

 個性とはいったい何だろうか?と考える。

そういう事を考える機会が、ぐっと増えた。

足が速い。勉強が出来る。手先が器用だ。歌が抜群に上手い。etc

では、何か欠ければ生きてはいけないのだろうか。

 

スポーツが苦手であれば、勉強を頑張ればいい。

勉強が出来ないのであれば、手に職をつければいい。

手先が不器用であったら、道具や他の人に頼るなど対応力を身につければいい。

 

いわゆる一般常識に囚われるから、「出来ない」ことに罪意識を覚えてしまう。

例えば、私であれば「声が小さい。」

さいころから、話しているのに聞き返されることなどしょっちゅうで、

学校でも教室で発言するとき等は、声を張るという意識を持たなければ届かなかった。

それを教師はもどかしく思ったか、「大きな声」を出す練習をさせられた。

 

全くナンセンスな話である。

社会に出てみてそれが何かの役に立ったか。全く立っていない。

声が小さいという事を自覚しているから、聞き手の近くまで行って話す。

プレゼンテーションなどは、小型のマイクを使えばいいだけの話だ。

 

だが、世間一般的にこの風潮は往々にしてあるのだ。

 

苦手は苦手。生活の支障をきたすlevelで無いのであれば問題はない。

本人の得意なものに時間を割く方が余程建設的だろう。

 

障がい者の雇用に関しての法令が、施行されて久しいが遵守している企業のなんと少ないことか。

彼らが「できない」ことに関して偏見の念を持ち、「できる」ことに関して目を向けていないことの証明だろう。

 

人を雇うことは会社としては、コストがかかること。

それは、間違いないことであるが、「人を大切にしない。」

企業の多さには辟易とするところである。

社員は企業のために働く。企業は社員のためにある。

という理念が崩壊してしまっている現代の多くの日本企業はそんなに息が長くないような気がする。あくまで私見だが。

 

とはいえ、では私に何ができるのかと考えたときに

経済的なバックボーンが有るわけでもない。

政界に進出するだけのコネがあるわけでもない。

医者や弁護士になって、そういった人たちを救える能力があるわけでもない。

 

それでも、何もしないというのは性に合わないので、

今の選択をするに至ったのだ。

 

この道で良かったのかどうかは全く不明だが。

それは、自分が「正解」にしてしまえばいいだけの話。

 

それでも、受け入れてくれた家族にはただただ感謝。